風が捲き起こるように、いろいろなことが急にあたりに立ち込めて、そのままもやもやと塵や埃を残して、春休みが過ぎた。
風のあとはいつもそうだけれどすべてがおさまったふうで新学期が始まり、気持ちだけが乱れた髪を抱えて現実は慌しさに流れていく。
登校の初日に、「ミサイル(とは書いていなかったけど)が来るかもしれません」と学校から子どもたちが文書を持ち帰ってきたのにはさすがに面食らった。それも二人がそれぞれ一枚ずつ、合計二枚。給食の献立でも何でも同じものを2枚持ち帰ることになるのをおかしいとは思ってきたけれども、こんな内容までも念を押すように通達されて、道端で会った「で、どうしろっていうのよねぇ」と隣家の奥さんの言葉に頷く。
昨日の夜半、一緒に渡された家庭調査票と保健調査票の提出を思い出し、家族構成生年月日健康状態連絡先等を記入し始める。別の書類だが、同じようなことを書き込むところが何度も出てきて、繰り返しの馬鹿らしさをうっすらと感じ始めたところで、いつもより改まった自分の字と、先程のミサイル文書が目に留まって、投げ出してやめてしまった。
一体おかしいのは誰なのだろうか?
それでも朝食の途中で娘に困ったように言われて、慌ててのこりを記入して手渡す。
洗濯物を干す朝の9時45分。7時45分にミサイルが発射され、それがニュースで8時05分に流れていたと隣家の奥さんから聞く。
「それで何の意味があるのかしらねぇ」と隣家の奥さんはまた笑う。
一体真に受けるべきは、何なのか?
何かに、現実を人質にとられて日々が過ぎていく。
しかし、真に受けてしまっている馬鹿は誰なのか、という問いにしてしまってはいけない。
昨日、息子が学校の日記に書いていた。
「きょう、たいいくのじゅぎょうをやりました。
そしてたいいくのじゅぎょうで、ドッジボールをやりました。
どっちがかったかというと、白ぐみでした。
ぼくはなにぐみかというと、赤ぐみです。
くやしかったです」
手抜き加減に笑い、単純さに笑い、かすかに構成らしきものがあることにも笑う。
でもこれを見せて遊びに行った息子の後姿を見ると、『やつらはマジだ』と思う。
真剣なものを馬鹿げたものにしていく人でなしは誰だ。
2012年04月24日
2012年02月23日
最近
中学校の学習支援のボランティアと、小学校の読み聞かせ、そのサークル内の付き合い。
あとははじめたばかりの家庭教師と、少しの仕事。
そんな感じで一週間が過ぎていく。
中学校の勉強を教えるのが初体験。その教材の準備や、教える手順なんかを考えるのに、意外に時間を取られてる。自分の科目以外にも教えてるし。夏以降からやっているのだけれど、高校入試前に教える内容が詰まってきて、事前に少し考え準備しておく必要がある。
全くの無給だけど、中学生の、はじらいを乗り越えてしまえば素直でみずみずしい反応や、あやふやさ、認めてもらいたい欲求などが新鮮で、やりがいを感じる。
小学校の読み聞かせは、スムーズに転居先の学校に馴染む窓口となってくれた大切なサークルなので、その活動は損得を超えて、とても大切にしている。週に一度小学生たちの反応を知ることができるし、お母さん方とさまざまなことを語らったりして、今自分がどのような社会に属しているのか、ということを実感させてくれる。
仕事は、センター試験が終わったのでぐっと楽。何名かの担当の生徒の、小論文や面接の相手をしている。仕事に行っているあいだの時間の密度は薄くなってるけど、小論文や面接の為に、新聞に丁寧に目を通したり、必要とあれば本を読んだりして、頭への不可は大きい。ところが実際の生徒の文章はそんなこととは全く違うところでつまづいたりねじれたりするので、徒労の感多し。
家庭教師は、半分はこちらが買って出た仕事。ここ何年か感じてきた、子どもたちの文章の“見え具合”の変化は、その子の学力や環境に関わりなく、“事実”として今ぐるりと私の周りを取り囲んでいる。それが、1対1の、時間に融通のきく家庭教師としての関わりでどれくらい変わりうるのか、といこうことを試したかったから。まだまだはじめたばかりで、私自身にも課題はあるが、その生徒に、文章が見えてくる感じを楽しむ様子が出てきたのがまずは手ごたえとなってる。これも、自分の科目以外もやっているし、丁寧な関わりが必要。
とまあ、あれこれやっているようだが、生活に結びついているものはほとんどない。さらに来年度はさらにさらに仕事を減らしてほかのこともやろうとしているので、現実的にはかなり心もとない。ママは、家計の管理もずさんで、家事も放り出して机に向かってばかりいる。そうでなければ意味不明の気分転換をしていたり。
それでも、私の理想や求めている生の実感を、家族は理解し手助けしてくれている。それがあるからこそ私も、自分が接する子どもたちの心にもそのようなものがあると信じて進むことができている。
私が関わっている瞬間に見せる生徒たちの充実が、そのような場所に向かって私たち家族も生きているのだという喜びになる。そのような世界への信頼がなければ、わたしたちがいない時間を生きることになっている子どもたちを、とても育てることはできない、と思う。しかしぎりぎりいっぱい崖っぷちの、自転車操業の状態だが。
私が目指しているのは、ほんとうに束の間のきらめき、のようなものなのだけれど、そのようなもののために日々を過ごすことができるのも、夫も同じようなところにみているというところが大きいと思う。
夫は私よりも狭量で(言っちゃった)、極端に走りがちで、本質的なところにしか相手にできないという欠点がある。でも本質的なところに向かっていれば、たいがいのことは理解され、協力も惜しまない。私を補う力強さもある。その揺るがなさに、何度も私は引き戻されてきた(それがよかったか悪かったかはよく分からないけれど)。
他の家庭が、夫婦で何を共有しているのか私にはよく分からない。しかし私たち夫婦は、時間に見合った私たち夫婦にありうべき地点にいるという所だろうか(多くの失ったものもあるが...)。
すばらしさは世の中にさまざまある。すばらしい絵画、すばらしい音楽、すばらしい詩、すばらしい時、すばらしい声、すばらしい女、すばらしい食事、ばらしい車、すばらしい家...。
今朝も私は新聞で、フランスメーカーのすばらしい腕時計の広告にため息をついた。
でも生は有限であり、私たちは「かなわなさ」というものを、先の震災で痛いほど見知った。どんな悲痛な祈りでも、防波堤を越えた波を押し戻しはしななかった。失われた命も取り戻すことはできない。私はここ数年体調を崩し、身内のさまざまな不幸もあって、自分の内側でもその「かなわなさ」の声を実感することができる。
もっと“すばらしさ”の焦点を絞ることが必要だ。
もしかしたら人は、ほんの微かなことしかその生のうちになしえないものなのかな、とも思う。
いや、むしろそれ以前に、どのようなことにスケールを置いているのか、ということが問題にされるべきか。
そして私が、より微かで、とらえどころのないものへと志向しているだけなのかもしれないい。
あとははじめたばかりの家庭教師と、少しの仕事。
そんな感じで一週間が過ぎていく。
中学校の勉強を教えるのが初体験。その教材の準備や、教える手順なんかを考えるのに、意外に時間を取られてる。自分の科目以外にも教えてるし。夏以降からやっているのだけれど、高校入試前に教える内容が詰まってきて、事前に少し考え準備しておく必要がある。
全くの無給だけど、中学生の、はじらいを乗り越えてしまえば素直でみずみずしい反応や、あやふやさ、認めてもらいたい欲求などが新鮮で、やりがいを感じる。
小学校の読み聞かせは、スムーズに転居先の学校に馴染む窓口となってくれた大切なサークルなので、その活動は損得を超えて、とても大切にしている。週に一度小学生たちの反応を知ることができるし、お母さん方とさまざまなことを語らったりして、今自分がどのような社会に属しているのか、ということを実感させてくれる。
仕事は、センター試験が終わったのでぐっと楽。何名かの担当の生徒の、小論文や面接の相手をしている。仕事に行っているあいだの時間の密度は薄くなってるけど、小論文や面接の為に、新聞に丁寧に目を通したり、必要とあれば本を読んだりして、頭への不可は大きい。ところが実際の生徒の文章はそんなこととは全く違うところでつまづいたりねじれたりするので、徒労の感多し。
家庭教師は、半分はこちらが買って出た仕事。ここ何年か感じてきた、子どもたちの文章の“見え具合”の変化は、その子の学力や環境に関わりなく、“事実”として今ぐるりと私の周りを取り囲んでいる。それが、1対1の、時間に融通のきく家庭教師としての関わりでどれくらい変わりうるのか、といこうことを試したかったから。まだまだはじめたばかりで、私自身にも課題はあるが、その生徒に、文章が見えてくる感じを楽しむ様子が出てきたのがまずは手ごたえとなってる。これも、自分の科目以外もやっているし、丁寧な関わりが必要。
とまあ、あれこれやっているようだが、生活に結びついているものはほとんどない。さらに来年度はさらにさらに仕事を減らしてほかのこともやろうとしているので、現実的にはかなり心もとない。ママは、家計の管理もずさんで、家事も放り出して机に向かってばかりいる。そうでなければ意味不明の気分転換をしていたり。
それでも、私の理想や求めている生の実感を、家族は理解し手助けしてくれている。それがあるからこそ私も、自分が接する子どもたちの心にもそのようなものがあると信じて進むことができている。
私が関わっている瞬間に見せる生徒たちの充実が、そのような場所に向かって私たち家族も生きているのだという喜びになる。そのような世界への信頼がなければ、わたしたちがいない時間を生きることになっている子どもたちを、とても育てることはできない、と思う。しかしぎりぎりいっぱい崖っぷちの、自転車操業の状態だが。
私が目指しているのは、ほんとうに束の間のきらめき、のようなものなのだけれど、そのようなもののために日々を過ごすことができるのも、夫も同じようなところにみているというところが大きいと思う。
夫は私よりも狭量で(言っちゃった)、極端に走りがちで、本質的なところにしか相手にできないという欠点がある。でも本質的なところに向かっていれば、たいがいのことは理解され、協力も惜しまない。私を補う力強さもある。その揺るがなさに、何度も私は引き戻されてきた(それがよかったか悪かったかはよく分からないけれど)。
他の家庭が、夫婦で何を共有しているのか私にはよく分からない。しかし私たち夫婦は、時間に見合った私たち夫婦にありうべき地点にいるという所だろうか(多くの失ったものもあるが...)。
すばらしさは世の中にさまざまある。すばらしい絵画、すばらしい音楽、すばらしい詩、すばらしい時、すばらしい声、すばらしい女、すばらしい食事、ばらしい車、すばらしい家...。
今朝も私は新聞で、フランスメーカーのすばらしい腕時計の広告にため息をついた。
でも生は有限であり、私たちは「かなわなさ」というものを、先の震災で痛いほど見知った。どんな悲痛な祈りでも、防波堤を越えた波を押し戻しはしななかった。失われた命も取り戻すことはできない。私はここ数年体調を崩し、身内のさまざまな不幸もあって、自分の内側でもその「かなわなさ」の声を実感することができる。
もっと“すばらしさ”の焦点を絞ることが必要だ。
もしかしたら人は、ほんの微かなことしかその生のうちになしえないものなのかな、とも思う。
いや、むしろそれ以前に、どのようなことにスケールを置いているのか、ということが問題にされるべきか。
そして私が、より微かで、とらえどころのないものへと志向しているだけなのかもしれないい。