年に何度か、着なくなった衣類の処分をする。
小さくなった子どもたちの服や、ヨレヨレになった夫の下着、もういいかげんくたびれたハンドタオルなどが、籠に積み上げられている。
そのまま捨てるのはやましいし、上手く思い切れないので、少しづつ小さいサイズの端切れに切りそろえ、捨て雑巾として一つの袋にまとめておくことになる。不定形の衣類を広げ、そこに次の直線を見て、ザクザクと切り開く。
最初のころは鋏を入れるのに勇気が要った。だが、どんどん子どもたちも大きくなり、季節ごとの衣類はあふれかえる。処分してしまわない限り夫も、きれいなものくたびれたものの区別なしにお構いなく着回し続ける。
私の思い入れや名残惜しさがクローゼットを窮屈にし、夫や子どもが徐々に見飽きた煤けた姿になっていく。鉢植えも時には鉢換えをするように、突然やってくる成長の季節に追われ、昨日の構成要員だった服を引きずり出す。生活の変化を自分にも服にも言い聞かせ、そしてそれをこっそり処分用の籠に。スースーとした引き出しや戸棚を見て、顎をグッと引き、昨日をどうにか後方へと追いやる。
人の人生は、ものを通り過ぎていくものなんだ、と、この作業のたびに思う。
入り組んでいたように見えた服も、長い縫い目から短い縫い目へと鋏を入れれば見る見る何物でもない形にほどけていく。生地のほつれは、平面の布でさえも、誰かに織り合わされることによってその質量となっていたことを教える。さらには平面だった布が、服という形として留まるために、端の処理、重ねたミシン、ダーツ、寄せられたギャザー、一つ一つの手数を教える。
ほんとどうでもいいと思って着て、洗って、ほおり投げていた衣類でも、予想よりはるかにいくつもの手によって服となり我が家にいた。
人が人らしくあるために必要な、気の遠くなるような手間。それは切りほどき、服であることを解体するその瞬間に現れる。しかし後戻りはできず、せめてもの落とし前が、服であったことの名残を始末する作業だ。平面に戻った服は、呆気ないほどに素直なただの平面となり膝に広がる。薄汚れた柄に名残を確かめる。
よく子どもが物を壊したりすると、「形あるものは壊れるものだから」と聞くが、でも同じ目で考えればその子どもも、形あるものとしていつかは壊れ、何ごともなかったように消え去ってしまう同様のものである。
だからとてもそんな風には思えない。
形あるものには、その形を留めた何かが、いつか壊れるものには、その名残をとどめる何かが、あるに違いないと思ってしまう。物が壊れるたびに、はしたなく取り乱し、我にもなく後を引く。
しかし、悲しいかな、小さく切り揃え新しくなった衣類が積みあがった姿は、愛らしく手に暖かくそして美しくさえもあるのだ。もしかしたら形あるものは、どこかで壊れることも、望んでいるのかもしれない。
少なくとも、感傷や思い込みでさえ、壊れる美しさがある。
つまりさっぱりするということね。
そんなことを思っているうちに、3シーズン分の衣類が片付いた。