2008年10月22日

夜の輝き

ちょっと生活のスタイルが変わって、
毎日をバタバタと追われて過ごしています。
「一人の時間」がしっかりと欲しいタチなので、
夫も子どももいない貴重な時間を
家事労働に取られてしまうのが厳しいところです。
それでも昨晩は、ふと夜中に目覚めて、
机に積み上げられていた、
ちょっと前の新聞に目を通す時間がありました。
スケジュールに組み込まれていないわいてきたような時間だったので、
ゆっくりと少し湿った夜の風が流れ込んでくるのを感じながら、
今ここにはない時間の中を旅しました。

書評の欄に、
スーダンのダルフール紛争の現実を描いた本や、
静かな日常を描き出したアメリカの小説家の話などが載っていて、
そのページを開いたまま窓の向こうの暗闇を見つめ、
しばらく思いをめぐらせていました。
政府によって住民が虐殺されているスーダンのありさまは、
髪の毛が逆立つような人間不信のさざ波を立てていきますが、
しかしそれを知らせる新聞の同じページに人が生きるということの輝きの明滅が、
人生を進めるスピードに歩みを揃えているような小説の話もあり、
波立つ目前の暗闇に、彗星のように光が行き交い、
思いを人間存在の根源的なところへと誘っていきます。
とにかく今私に示されているのは、
私がスーダンにいるとか、いないとかの話ではなくて、
だたこの崩壊に向かうしかないというような極限的な状況と、
その隣にもう一つ、
静かに小石を重ねていくというような人の人生のあり方があって、
この二つが同様に、そしてこの二つの「並び」が、
「人が生きる」ということはどういうことかということを
示しているように感じられました。

夜の闇は静かに昨日の延長であった時間を、
翌朝の前であるような時間へと運んでいきますが
そんな時間でも家並みの光が消え去ることはなく、
静かな住宅街には残る光が夜の星のように瞬いています。
この時間もここにつながる場所で起こっている虐殺や、
この時間もどこかで積み上げられている人生の石が、
光となってここに届いているんじゃないかと思いました。
自分が、
虐殺であれ、人生の穏やかさであれ、
そのような可能性をはらんでこの世に生れ落ちたということが、
夜の暗闇から響きかえってくるようでした。
夜の暗闇のような時間や人間性の広がりの中で、
それが悲劇であろうとささやかな穏やかさであろうと、
光に生きていることの温もりを俯瞰している自分の姿もまた、
いかにも人間らしい根源的な心情の一つなのではないかと
感じられました。

私は今この場所にいてこの時間の中いますが、
それさえも
極限から極限へと振り幅を示す
人間が奏でるシンフォニーによって
増幅されるのです。
私は、鉈で殺し合ったり、
もしくは鉈で殺される人を見過ごすような人間でありえますし、
ひっそりと輝く人生を送る人間でもありえますが、
そして現実にはおそらくどちらでもない風で、
その両方を、いかにも人間らしく感得することで
胸を膨らませています。
とにかくは夜空に並ぶ幅広い天の川の、
私が一つの光であることは確かで、
そんな小さな光では川岸に光を届けるべくもありませんが、
かすかではあってもその光の中の一つであることが、
夜空を占めて流れる天の川の光を、
自分のものであると感じることを可能にしているのです。
それは私の光がどれかの光の励ましになっているという資格において。
そういう点から言えば、
すべてが見るべき価値のある光で、
自分の胸の内側と外側に光の海が広がります。
私は家並みの光を見ているが、
私の部屋の光が灯っているということが
向こう側からの光になっています。
そのように夜空に光が散らばって、
今の私があるのだろうと感じられてきました。
誰かの人生があるということが
自分の人生です。
どんな辺境の星でも、人類代表です。
私の人生を流れ星のように行き交っていた人たちのことを
思い返しました。
そう思ってみると
その一つ一つが人類の代表のような顔をしています。
なんだかおかしくなって、
小さな声で「会いたいよ」とつぶやいてみました。

暗闇は星に満ち
心は十分に遠くを旅して
すっかり満足して、
もう一度眠ろうと寝室へ向かいました。

posted by kimiko-pinebook at 12:40 | 沖縄 晴れ | Comment(0) | TrackBack(0) | sunny sideな日々

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